約束の地に導かれて  T・Hさん  その1

   私は、1967年にT家の長男として生まれました。高校生まで(正確には一浪まで)を埼玉県で過ごしました。一年の浪人生活を経て1987年関西の大学に進学することになり、初めて関西に住むことになりました。

 妻と知り合ったのも大学時代で、彼女は滋賀県の看護学校へ通っているとても純粋な学生でした。デートで京都のとある寺院へ行った時のことです。当時、私は喫煙していたのですが、「境内一円禁煙」という看板を見た彼女が一言「一円とるくらいやったらタダにしてくれたらいいのになあ。」それを聞いた私「本気で言ってる??」 ちょうど1990年に大阪で『花の万博』が開催されていた時のことです。『咲くやこの花館』の前にいた綺麗なコンパニオンのお姉さんを見て、妻が一言「私もなれるかな??」「何になるの?」「パビリオン」「パビリオンは建物だから無理じゃない」

 ということで、1993年に結婚しました。結婚当初は私が東京勤務でしたので、墨田区の今スカイツリーが立っているあたりに住みました。94年には長男が東京の聖路加病院で生まれました。      99年に二男が、妻の実家のある滋賀の病院で生まれました。その当時は、寅さんで有名な柴又帝釈天のそばに住んでいたのですが、妻は二男を出産するために長男を連れて里帰りしていました。産後もしばらく実家にいましたので、私は東京で久しぶりの一人暮らしを結構楽しんでいました。まだ3人が帰ってくる前に、会社から4月より大阪に行ってもらうとの内示を受けました。

   99年の4月、とうとうこの約束の地「松原」へ住むことになりました。 慣れない仕事で、しかも初めて住む松原は、メイン通りは狭いし、自転車は多い。自転車に乗っているおばさんたちは、サンバイザーを目深にかぶり、みんな自転車に傘立てをつけていて、車の間をすり抜けていくという、東京では見ることのない光景に最初は戸惑いました。しかも99年はノストラダムスの大予言の年でした。何かが起きる?

   2年後、2001年4月、私は単身で中国へ赴任、長男は小学校へ、二男はジョイファミリー幼児園のプリスクールに通学することになりました。その間に、子育てのことでいろいろ悩んでいた妻は、ジョイファミリーの教会の子育てセミナーに参加し、長男にも教会に行くことを勧め、3人ともこの松原聖書教会でお世話になっていました。

   3年間の中国赴任を終えた私は、再び東京へ帰任することになり、ようやく単身生活も終わりかと思っていました。しかし、松原に生活基盤のできた妻、長男、二男はなかなか東京へ行きたがらず、結局、二男が幼児園を卒業するまでのもう1年、私は埼玉の実家から東京へ通うことになりました。1年たって東京へ引っ越しをしたのですが、当日はYさんがお掃除を手伝ってくれて、駅まで車で送ってくれました。その時、妻は東京へ行きたくなくて、ぼろぼろと涙をこぼしていました。

   東京では、長男と二男は小学校へ通いだしました。東京近辺の教会を紹介してもらって何度かは礼拝に行っていましたが、子どもたちは軟式野球を始め、教会へ頻繁に行くことはなくなりました。ただ毎週日曜日の夜になると、H先生から長男宛に1週間分の子供デボーションのFAXが何枚も入り、ずっと気にかけてもらっていてありがたいことだなと思っていました。

 

   東京で仕事をしていた私は、たまたま縁があって、大阪にある会社と商売をさせていただくことになりました。比較的順調に取引はスタートしたのですが、ある時、納期のトラブルで、松原まで上司と一緒にお詫びに伺いました。会社から駅までの帰り道で、上司に「妻も子供もこの松原がよかったみたいで、引っ越しの時は泣いていました」という話をしました。 半年後、上司に「大阪に行ってもらうことになった」と告げられました。家で妻に話をすると大変喜んで「奇跡や、奇跡や」と言っていましたが、東京で中学受験をする長男には伏せておこうということになりました。

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