神様に「弱さ」をゆるされた  I・T さん

 私が初めて教会へ行ったのは、小学校3年生のころです。Mさんに日曜学校へ誘ってもらったのがきっかけでした。日曜学校でどんな学びをしたのか、ほとんど記憶がないのですが、Mさんは神様のことをいろいろ教えてくれました。中でも他人に対してネガティブな感情を抱くことだけでも罪になるんだ、という事を聞いたときは、幼心にもショックで、これは大人になってもずっと心の中に現れてきていました。(ほとんど見て見ぬふりでしたが)

 Mさんの持つ聖書がうらやましくて、聖書を買ってほしいと母にお願いすると、分不相応な大きなのを買ってくれました。倹約家の母がすんなり高額な聖書を買うお金をくれたことがかなり衝撃だったのか、今でも鮮明に覚えています。

 しかし、6年生くらいになるとだんだん教会へ行かなくなってきました。自分の家とMさんの家の違いを意識せずにいられなくなってきていたのです。私の両親は共働きで家の中はいつも散らかっていて、お兄ちゃんや妹がいてバタバタしていて余裕がなくて…。でもMさんの家はきれいなママがいて、かっこいいパパがいてお家は外国の家みたいにきれいで、二人の上品なお祖母ちゃんがいて。みんながMさんを大事にしていて…。Mさんの優雅な暮らしをうらやむ気持ちが少しずつ自分のコンプレックスになっていったのだと思います。そのうえ教会では私の知らないことをたくさん知っているMさんは洗礼も受ける…自分にとって教会が居心地の悪い場所になっていきました。私は、小さいころから負けず嫌いで勝気で、自分のこういう弱いところを他人に見せることをしなかったように思います。私とMさんは姉妹のような仲ですが、このことはMさんにも言ったことはありませんでした。

 

 私が再び教会へ行こうと思ったのは、今から3年前、離婚がきっかけでした。「離婚」は自分の今までの罪に対する神様からの罰だとも感じていて、傷つき自分にも絶望していました。そんなとき、Mさんは私の心を支えてくれました。離婚の話が難航しているときには「自分で行かれへんかったら、私が話しにいこうか?」とも言ってくれました。なぜ、Mさんは私にそこまでしてくれるのか、なんで、必死になって私のそばにいてくれるんやろうって考えたとき、Mさんの信仰から生まれるものなんだろうなあ、ということを初めて確信しました。Mさんが40数年通っている教会ってやっぱりすごいところやん!私も教会へ行きたい、自分を変えたい、と強く思いました。

 2017年の4月から礼拝へ行き始めました。F牧場のNさんは初対面で「Mさんの親友は私の親友や」と言ってくれました。幸子先生との学びもスタートさせていただいたのですが、私は看護学校へ通いだしたのも同時期で、週4日の学校と夜勤バイトでヘロヘロになっていました。そのうえ課題や試験、実習が始まり、予想をはるかに超えて忙しくなってきたのです。学びも主日礼拝も牧場の集いもおろそかになっていきました。教会へ行けないことを後ろめたく思いながらも、忙しいのを理由に自分を正当化しいていましたが、ある日Nさんに「礼拝来るって言ってたのに全然けーへんやん、なんでなん?」と言われ、率直なNさんの言葉にガツンと殴られたような衝撃。その私の横顔を見てMさんはニコニコしながらそっと、「来れるときだけでも…隔週でもええからおいでな」と言ってくれました。

 それからは「やっぱり、自分で行くって言ってんから、約束は守らなあかんな」と思い直し、夜勤明けの日曜日も礼拝へ行きました。眠かったけど、寝てしまったこともありましたけど、やはり礼拝に行くと元気になり、行ってよかったと思えました。必要なときに必要なことを言ってくれるNさん、いつもやさしくありのままを受け入れてくれるMさんに心から感謝しました。

 

 今年の4月から学びを再スタートさせていただきました。野口先生と幸子先生との学びは世間話や何気ない話から始まりますが、お二人の暖かな眼差しは自分の内に秘めているものや忘れかけていたこと、潜在意識として普段はなかなか感じられないことまで引き出してくださいました。学びが終わるととても心が軽くなっていました。いつもルンルンで元気いっぱいになって帰りました。そしてだんだんと日常にも心の変化が現れてきました。

 そのころ父と折り合いが悪く、自分は父から嫌われている、父が怖い、と完全に委縮し毎日父の言動にびくついていました。なんとかコミュニケーションをとろうとがんばってみてもうまくいかず、空回りの日々。母も娘も暗い表情になっていました。しかし、学びの中で野口先生から「自分ではどうしようもない罪も、神様はすべてわかっておられて許してくださっているんだよ」と言われたことがすっと心に入ってきました。

 父に向けていた冷たい視線、父を傷つけていた何気ない言葉、父のことを思っているつもりが自尊心をずたずたにしていた自分が見えてきました。それが父を怒らせている原因だとわかっているのに自分をごまかして、全然向き合えなくて父のせいにしていた自分も見えてきました。「神様の許し」を聞いて、ほんとに弱い情けない、これまで親に心配ばかりかけてきた罪だらけの私を許してくれていると感じた瞬間、ものすごく気持ちが楽になっていきました。私は許してほしかったんだなあ、と涙があふれてきました。自分は神様から罰せられるべき人間という思いから急に解放されて、だめな自分、弱い自分も認めていけるような気持ちになりました。すると、父の前でも自然と明るくなり、無理な元気ではなく自然に元気が作られるようになりました。するとほどなくして、父のイライラした様子も少なくなり、私への態度も穏やかになってきたのです。

 

 野口先生から受洗のお話をいただいたとき、正直「え、うそでしょ」と思いました。「完全に信じたわけでもないのに、こんな感じでいいの?」と。でもここからがスタートでこれから学んでいけばいいんだ、と野口先生と幸子先生のニコニコした顔を見て思いました。でもやっぱり不安で、いつでも撤回できるように「まだ誰にも言わんとこ」と思っていたのですが、すぐにMさんから「うれしくて泣いてます」メール。Nさんから「鳥肌立ってます」メール…。次々と祝福のメールが届きました。次の日教会に行くと牧場のメンバーたちから「すごいやん!」と言われ、なんもすごくない~と逃げ出したい気持ちでしたが、その反面、皆さんが喜んでくれているのがすごくうれしくて、そして素直にみんなからの祝福を受けよう、不思議に私はその気になっていきました。これもご聖霊様の働きということを教えていただきました。

 

 Mさんに出会ってから30数年、ずっと私のことを祈ってくれていたこと、そしてお母さんが買ってくれた、どこへ行くときも持って行きましたが、決して開くことはなかった聖書、いつも私たち兄弟を見守ってくださり、母を助けてくれていたMさんのママ、たくさんの種がまかれていたことを今感じています。受洗を不安に思う私に「そんなもんやで」と温かく迎え入れてくださったF牧場の方々、教会の方々、野口先生ご夫妻、お祈りありがとうございました。そして、「今日は絶対にママの証を聞きに行く」と言ってくれた娘、こんな私を娘とし辛抱強く今も支え助けてくれているお母さんお父さんに感謝します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。