「わたしは愛されている」 K・Mさん

 私がここ松原聖書教会に初めて来たのは、図書館で目にしたジョイファミリー文庫のポスターがきっかけでした。今から16年前、娘が1才の誕生日を迎える前のことです。

 その時、一番にかけ寄って声をかけてくれたのがMさんでした。私が神様を信じ受洗の決心をしたことを一番喜んでくれたのが彼女であり、私は彼女がいたからこれまで途切れることなく教会につながってこられたと感謝しています。Mさんありがとう。

 

 ジョイファミリー文庫にはじまり、娘はプリスクール、幼児園とお世話になり、2014年12月に洗礼を受けクリスチャンとなりました。私はといいますと、子育てセミナーやゴスペル、フラダンス教室に通わせていただき、時折礼拝にも来させていただくことはあったものの、特に神さまのことを知りたい気持ちもなく過ごしてきました。その間、学びのお声がけをして下さったことがあったのかもしれませんが、記憶にないほど関心がありませんでした。

 

 私は、常識の枠からはみ出すことを許さず、生真面目でとてもよく働く母の元で育ってきました。今思えば、母が私のためを思って言ってくれていたことも、その時は事細かに指示されることがうっとうしくて。それなのに逆らえず、心で反抗しながら嫌々従ってきました。父はとてもおとなしい人で、母に意見することもない人でしたから、それはそれで頼りにならない父だと、尊敬できずにきました。

 そんな家庭環境から抜け出したくて自由になりたくて、大学は地元に戻ることを条件に、全寮制の高校に進学し、3年間親元を離れて生活しました。ですが、卒業後に家に戻るとまた同じで、堅くて厳しい母には逆らえず、おとなしい父には苛立ち、自分の不満をぶつけていました。

 

 結婚してからは、親と離れて暮らす分、両親に対する気持ちは落ち着きましたが、5年、10年、15年…と結婚生活も長くなってくると、今度は主人との関係が問題です。些細なもめごとが積み重なって、私の中に嫌な気持ちが溜まっていきました。

 主人は「別にこんなの普通にみんな使っている」というのですが、私にとって主人に言われる言葉はきつく、突き刺さる言葉にしか聞こえなくなっていました。何かもめごとがあるたびに、自分が責められ否定されているようで、早くその時が過ぎてほしくて黙ってしまう。冷静に話し合うこともせず、うやむやに事を終わらせてきました。言いたいことがあっても言わず、自分を殻に閉じ込めてきました。主人は周りからすると、まめに気がつくいい人なのですが、私にはやさしくない。私がこんなに嫌な思いをして苦しいのは主人のせいだと、心の中で責めてきました。

 自分のことだけで精一杯で余裕のない私ですから、成長し、今思春期真っ只中の娘が、迷い悩み、気持ちの持って行き場がなく喜怒哀楽をぶつけてきても、受け止めてやれない状態でした。夫婦の間もますますぎくしゃくする中で、昨年、聖書の学びをしませんかと声をかけていただきました。そんなつもりはなかったのに、なぜかその時は「はい、お願いします。」と返事をしていました。

 

 学びの中で、牧師先生が「神様を信じるきっかけは人それぞれだ」と信仰に至った方々の話を聞かせて下さり、また数冊の本を貸して下さいました。その中の一冊がアーサー・ホーランド先生の書かれた自叙伝『不良牧師』です。この本を読んで私は神様の愛を知り、救われ、忘れられない体験をしました。

 アーサー師が牧師となり、初めて新宿の交差点で「あなたは愛されている」と往き交う人々に語られた。そのひと言を読んだとき、私は涙があふれて止まらなくなりました。自分でも何が何だかわからない。けれども感情が込み上げてきて、涙があふれて止まらないのです。「あなたは愛されている」それは今、私に語られた言葉で、とにかく私は愛されているんだと感じる。うまく伝えられませんが、神様の手の中に、大きな愛に包まれていると実感する、そんな気分でした。現実は何ひとつ変わっていないのに、私自身はとても穏やかに癒され、心は清々しいんです。

 「あなたは愛されている」この本に書かれていた、たったひと言がこんなにも心に響くものでしょうか。思い出すと今も心が震えます。神様はこんな私でも愛してくれていると確信せずにはいられませんでした。

 

 このことがあって後、また主人が怒り出す事件がありました。いつもの私ならここで沈黙して萎縮するところですが、その時はそうではありませんでした。先ず、主人が何を怒っているのか話を聞きました。そのことに関しては、私はそんなつもりはなかったのですが、主人を不快にさせたなら悪かったとあやまりました。そして、これまでもそうやって怒り出すたびに言われる言葉が私にはきつく突き刺さって、嫌で、何も言えず黙ってしまっていたと、初めて自分の気持ちを話すことができました。すると、それまで激高していた主人が驚くほどすーっと落ち着いて、お互い思いを話し合うことができたのです。本当に不思議です。

 私のこの話を聞いて「よかったあ、言えたんだ。」と牧師先生はおっしゃって下さり、私自身が変わってきたことを学びの中で確認したことです。だからといって、すぐに自分を出せるわけでもなく、思っていることを話すにはまだまだ勇気が要りますが、ひと言切り出せば、私の心配及ばず、案外あっさりと、主人は話を聞いてくれるものだとも感心しています。

 

 これまでの人生で、父や母を、また主人を良く思えなかった私の罪が、神様を信じたことで許されたら、今日からは、神様があるがままの私を愛して下さったように、私も、主人、家族をありのまま受入れ愛していきたい。また、私の周りの人々をも心から愛し愛される私に生まれ変わりたい、そう思います。

 自分の殻の中に閉じこもって、相手を非難し嫌っていた、イヤな自分、トゲトゲした自分、そんな私でも、愛され救われて変われるんだと、気付かせていただいたことに感謝です。

 

 私の受洗を心から喜んで祝福して下さったF牧場はじめ、多くのみなさま、ありがとうございます。そして半年以上もの長きにわたり聖書の学びをして導いて下さった牧師先生、最後の最後に力強く背中を押して下さった幸子先生。本当にありがとうございました。みなさまの愛に心から感謝申し上げます。やっと一歩踏み出したばかりの未熟者です。どうぞこれからもお導き下さい。よろしくお願い致します。

 最後に、私の元に生まれてきてくれて、今日の日を心待ちにしてくれていたであろう娘と、縁あって夫婦となり快く今日を迎えさせてくれた主人に感謝して、私の受洗の証といたします。ありがとうございました。