少しずつ変えられる(K・M)

 松原聖書教会に初めて来させていただいたのは、今年1月マリッジセミナーでした。破れ鍋に綴じ蓋の私共夫婦ですので、今まで数多くの夫婦の危機はありましたが、昨年末の危機はもう本当に別れるしかない・・・と思えるものでした。“浮気をした”とか“ギャンブル狂い”とかそういったものではなく、例えば私が流しにおいてあるお皿を何気に洗うと、妻としてはそれがお皿を放置している自分に対する当てつけに見える等々、お互いの善意にさえ怒りを感じるという凄惨なものでした。

 マリッジセミナー参加は、同じ牧場のM夫妻の勧めによるものでした。今考えると、夫婦の関係が修復され、更に改善するため来させていただいた・・・というより、人間の怒りがそこまで長続きしなかった、もっと言うと、妻に行きたくないといって、いまさら家庭を波立たせたくないということだったかもしれません。セミナーは、私共夫婦にとって本当に有意義なもので、最初のマリッジタイムは神戸三宮まで行って持ったものでしたが、これを持ったことによって、改めてお互いの違いを認識することが出来た、違っていることを認め合うことが出来たなど、本当に感謝です。

 

 夫婦間のこともさることながら、会社のことでも大きな悩みがあり、この時期本当にしんどい日々を過ごしていました。中小企業の人材難はいずこも同じですが、私はもう十数年にもわたって山本五十六の“やって見せ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は育たじ”を実践しているつもりでいたのですが、若い子たちの返答は“やって見せ、言って聞かせ”ようとすると、「無理無理無理!!」無力感でどうしたらいいか判らない状態に陥っていました。

もう本当に会社を辞めようと思い、その思いを彼らに伝えたところ、こんな答えが返ってきました。「自分たちは自分たちなりに頑張っているのだけど、Kさんの要求はあまりにハードルが高すぎる、今はKさんが怖くて仕方がない・・・」

 私は、声を荒げてしかりつけたことはおそらく一度もありません。でも完璧主義の私は、いつの間にか、遅々として進まない現状や、そのいらだちから、彼らからすると、高見から見下ろすような指導と感じていたようでした。もう一度冷静に、彼らを見てみると、確かに歩みは遅いものの、間違いなく進歩していたのです。

 世の中には、何も努力しないで、100メートル12秒で走れる人もいるが、本当に努力しても15秒を切れない人もいる、彼らの努力を見ようとせず、また彼らの成果を認めようとせず、高圧的になっていたことに気づき、心から反省しました。それから僅か半年程ではありますが、今は彼らが出来たことを誉めるように努めています。そうしますと、僅か半年程であるにも関わらず、彼らの私を見る顔つきに笑顔が多くなって、なんとありがたいことに「Kさんには、可能であれば70歳まででも80歳まででも頑張ってほしい。」などと言ってくれるようになりました。

 10月28日の野口先生のお話の中で、ほめることの大切さを語っていただきましたが正にその通りでした。今私は、もう還暦間際ではありますが、少しずつ変われるかもしれないと感じています。

 

 食品会社で品質管理を20年もやっていると、1時間程話をしてほしい・・・などの依頼は結構頂きます。今まではSAD(社会不安障害:Social Anxiety Disorder)だから・心筋梗塞再発する・パニック症で・・・などとすべて断ってきましたが、先だって、ある大学から依頼があり、学生・関連教授・一般の方を対象に90分ほどの講演をさせていただきました。これは、今までの私では、考えられないことです。

 元々、内向的で対人恐怖の傾向のある私にとって、教会という組織に属するということ自体恐怖がありました。内村鑑三の教会を否定し、聖書と信仰のみを重視するという無教会の考えについてはかなり傾倒しておりましたが、今行っていただいている“学び”でお教えいただいた教会論では、まさにこのしこりが取れた思いでした。

 私は、未だかつて自分を好きだと思ったことはありません。勿論自分に自信を持てたことなど一度もありません。高校で3年間結構スポコンで得た黒帯も、長年続けた習い事でいただいた免状も、結局私自身の自信に繋がるものではなく、自分のダメさを実感するだけのものでした。今もその柱のところに座らせていただいておりますが、とにかく横に壁とは柱とかないと安心出来ない、そんな私です。

 

『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイ11:28)

 先日11月12日、転会のご挨拶の為松山にある教会に行ってまいりました。洗礼を授かったのが1989年6月25日で、今年でなんと30年目となっておりました。

 アメリカの町で、韓国系のアメリカ人T先生という方に初めて教会に連れて行っていただき、その素敵な雰囲気に魅了され、早速地元の松山の教会で受洗をいただいたのですが、それ以来で・・・いや生まれて初めて、今背負っていたものが少し軽くなった思いがしています。

 

 父が絵に描いたような大正生まれの頑固者で、物心つくころから神社に行っても「5円10円でお願いするんなんか、不届きじゃ!漢はこうこうするから神様見とって!と約束するものじゃ!!」と教えられてきました。だから、今も感謝は出来ても願うことには極度の罪悪感があります。

 今はまだまだ、無理です。でもこの教会の末席にいさせていただけたら、少しずつ変われそうな、いつか自分を好きになれそうな、改めて又習い事を初めてみたくなるような、自分に自信が持てそうな、壁や柱の無いところでも座れそうなそんな予感で、今少しワクワクしています。

 

少しずつ変えられる(K・M)