イエス様に変えられた  (N・A)

 私はキリスト教やイエス・キリストのことは高校までの授業で学んだことしかなく、この松原聖書教会に来るまでキリスト教に接することがありませんでした。あるとすれば、駅前で聖書のことを布教しているところを見たくらいです。私の家族・親戚や周囲の人にもクリスチャンがいなかった、いたとしてもクリスチャンだと知らなかったため、キリスト教やイエス・キリストのことを知る由もありませんでした。

 キリスト教やイエス・キリストのことをしっかりと認識したきっかけは、私の交際相手がクリスチャンであったことです。私の家は仏教ですが、彼女がクリスチャンだから付き合うことがだめということは、私も家族も思うことがありませんでした。ただ、彼女を深く知るためにはキリスト教のことを知る必要があると思い、彼女からの誘いを待ち、この教会に来ました。

 

 私は、就職してからは自分の体や心をあまり顧みず、相手のことや仕事のことに気をかけ過ぎていました。自分の性格的に、人には頼られたい・世話をしたい気持ちはありますが、いざ自分のことになると人を頼らないところがあります。人を頼らず、相談も少なく、独りよがりで物事を解決しようとしていました。自分でも知らないうちに心の余裕がなくなっていたと、今では感じています。

 現在、理学療法士として仕事をしていますが、患者さんをよくするため、一人では解決できないことが多々あります。人を頼らずに独りよがりでいた結果、無理が重なり、昨年はインフルエンザ・脱水症・肺炎などで2回倒れ、そのうち1回は1週間ほど入院しました。あとで考えてみると、神様が「今のままではだめだ。体と心を休めなさい。そしてもっと余裕のある心で物事に取り組み、考えなさい。」とおっしゃっていたんだと思い、そのときにイエス様が私の心にもいてくださっていると感じました。

 

 松原聖書教会に初めて来たのが昨年の10月で、12月から彼女とともにキリスト教や聖書に関して、牧師先生から学びを受けてきました。気づかないうちに心に余裕がなくなっていたことも、この学びの中で認識しました。また、学びの中で驚いたことが一つあります。それは、私がすでに聖書に書いてあることを実行していたことでした。私は自分よりも相手のことを第一と考えて生きてきました。学生時代も今も、自分だけで良しとはせず、良かったこと・勉強したことを周囲の人にも教え、自他共に研鑽していくようにしていました。ただただ世話好きでお節介野郎なだけかもしれませんが、ある意味ではこれも隣人を愛することになるのではないかと思いました。

エペソ1章4・5節にあるように、「世界の基に置かれる前から、私をイエス・キリストのうちに真の神様が選んでくださった」からだと学びました。このときから人生の救い主・心の支え主であるイエス様を本当に信じるようになりました。

 

 イエス様を信じるようになってから、気持ちに余裕が生まれ、仕事でも生活でもしんどくなる前に頼るようになりました。自分で出来ることはして、出来ないことや意見等がほしいときは上司・同僚に相談するようになりました。以前はよく体調を崩していましたが、今は肉体的にも精神的にも無理をしないようになり、体調を崩すことが激減し、毎年かかっていたインフルエンザにもかからなくなりました。また、体や心に余裕をもって仕事にも生活にも取り組めるようになってきました。これがイエス様を信じたからなのかはまだわかりませんが、少なくとも私の心にはイエス様がおられて、本当に神様はいらっしゃるんだと感じています。