「父との思い出」(召天者記念礼拝証) F・Yさん

  私の父は、2017年8月に生涯の幕を閉じました。66歳でした。本当に別れはつらいものですが、父の死を前向きに受け止め、父への感謝の気持ちを持ちながら毎日の生活を送っています。

 今日は私の父の自慢をさせていただこうと思います。普段なら親の自慢をすることはまずありえませんが、今日は思いっきりさせていただきます。良い意味でも悪い意味でもですが。

 父は一言で言うと昭和の酒飲みの頑固親父でした。仕事から帰るといつも定位置に座り、風呂とトイレ以外はその位置から動くことはありませんでした。父のことは全て母が行いました。そして怒るとちゃぶ台返しをしたり、夜中に母の泣き声が聞こえるので起きると父がバットでガラスを割っていたり、悪いことをすれば容赦なくどつかれていました。そんな父と向き合う中で、母の存在は私にとって非常に大きな存在でした。ちなみに母は49歳で亡くなりましたが、本当に母の死で私は成長し、家族の絆は深まりました。

 さんざん父の悪行の話をしましたが、やはり私にとっては尊敬のできる面もたくさんありました。一番尊敬し、私に影響を与えたことは仕事の面でした。父は自動車のディーラーとして働いていました。父の残してきた功績は今考えるとすごいものでした。年間販売台数で全国の表彰社員に選ばれるだけですごいのですが、父はその年間表彰を10回獲得しプラチナ会員という名誉を得ました。そのときの総販売台数は3000台以上であった気がします。1年間営業成績を上げ続けることがどれだけしんどいか、そしてそれを10年以上やってのけた父のすごさ、血のにじむような努力が、今証券会社で営業をしている私は社会人になってから分かりました。だから私は何度も辞めようと思った今の仕事を辞めません。それは言葉では語ることのなかった父の営業に対する姿勢、思い、実績を超えたいと思うからです。私も父のようにいつか子どもに背中で語りかけることができるような父親になりたいと思います。

 そんな仕事一筋の父でしたが、2016年2月に肺癌が発覚し、私たち夫婦の結婚式の翌日から闘病生活が始まりました。父は今までにも胃と腸に癌が見つかり手術をしてきましたが、早期発見のため大事には至りませんでした。だから今回も大丈夫だ、と楽観的に捉えようとしていた私でしたが、肺癌の摘出手術をした数か月後に再発が分かり本当にショックでした。そしていつからかは忘れましたが、父が「Yの子どもを抱くまでは俺は死なへん」と言い出しました。幸いにも私たちは待望の赤ちゃんを授かり出産予定日は7月初旬でした。そんな中父は再再発が発覚し、今年の1月から治療を行いましたが、この治療に効果が見られない場合は助からないという残酷な現実でした。そして2月に効果が見られず、その治療の副作用が命を奪う危険性も出てきたために治療は打ち切りとなりました。そして医者から早ければ5月にも命を亡くす可能性もあるという説明を受けました。でも父は言うんです。「孫を見るまでは死なん、頑張る」と。一番辛いはずの父が本当にたくましく見えました。そしてその日以降父と飲みに行ったり、東京に行ったり、いろんな思い出作りをしました。本当に父が数か月後に亡くなるなんて想像することはできませんでした。

 気付けば5月を迎えていました。いつも会うたびに孫を見ると言って自分を奮い立たせていた父。父にとって生きる最後の意味は孫を見ることだったと思います。そんな中待望の息子が7月初めに生まれました。生まれたその日の夜に入院している父にビデオを見せに行くと、力一杯泣きながら喜んでくれました。そして見るだけでなく息子を抱いてもらうことが新たな目標となりました。

 そして8月初めに父は孫と待望の対面をはたすことができました。その日のことは一生忘れません。父は孫を抱き、薄れゆく意識の中で喜びを表現してくれました。多くの人に祈ってもらったおかげで迎えることができたことを本当に感謝しています。予定日よりも早く生まれてきてくれた息子、一度は意識がなくなった父が意識を回復したこと、全てが奇跡的で祈りがきかれた瞬間でした。

 その4日後に父は静かに息を引き取りました。父の最後の夢が叶ったことは本当に神体験でした。時には嫌いであったりもした父でしたが、本当に多くのことを父から学びました。父と母から学んだことを生かし成長し続けたいと思います。そして本当に親父今まで育ててくれてありがとう。