桜と復活祭

 桜は他の木とは違い、花が先に咲き、後から葉が出ます。このことから、枯れ木にいのちが宿ったように花が咲き誇る様子が、イエス様の死からの復活と重なり、復活をイメージさせます。「そこで、今年の復活祭(4月21日)には、桜色の何かを身に着けて礼拝に出ましょう」ということになりました。服でも、アクセサリーでも何でも結構です。講壇から会衆の皆さんを見る時、桜の花が満開になるようで、考えるだけでワクワクしてきます。

 

 復活祭を一般的にはイースターと言います。礼拝でも申し上げましたが、何故イースターと言うのかを確認します。

 

 これは「エオストレ」という春の女神の名前から来ています。キリスト教の広がりとともに、異教の春の祭りが復活と同じような新しいいのちのイメージで祝われていたため、これをキリスト教化したものです。

  クリスマスがローマ帝国時代にあった異教の冬至祭をキリスト教化し、クリスマスとしたのと同じです。

  ともあれ、キリストの復活が死の闇を破って暁のように、この世に光をもたらす、そういう意味も込めて春の祭典を主の復活の祭りと変えていったものです。

  イースターという呼び方は、そういうわけでもともと異教の女神なわけです。だから、私はイースターという呼び方はしたくありません。主の復活を祝うのに、何故異教の女神の名を使わなければならないのでしょうか。ということで、私は「復活祭」という名称にしています。

  クリスマスも復活祭も異教の祭りをキリスト教化したのですから、凄いと言えば凄いことです。この世のものを主のために生かす知恵と工夫の大切さを教えられます。

 

 ところで、クリスマスと復活祭のどちらが早く祝われていたと思いますか。順序から言えば、クリスマスとなるでしょう。主の降誕なしには何も始まらないのですから。

  ところがそうではなく、復活なのです。主の復活があればこそ全てのものに意味が出てくるからです。主の生涯も、誕生も。

  確かに十字架で全てが終わってしまえば、単なる愛の美談か悲劇になってしまいます。そればかりか、私たちの信仰も人生も意味がなくなります。

 

 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(Ⅰコリント15:17~19)

 

 初めに復活ありき!です。