平成の締めくくりの年

 ある新聞社が、全国の有識者三千人を対象に、平成時代に関する世論調査を実施しました。その中で、平成を象徴する国内の出来事に目が留まりました。そのことを記します。

 

 社会に与えた影響の大きさの順位は、第一位が東日本大震災(2011年、平成23年)で、第二位が、地下鉄サリン事件などオウム真理教事件(1995年、平成7年)、第三位が阪神大震災(1995年、平成7年)、第五位が、東京電力福島第一原発事故(2011年、平成23年)でした。いずれも災害が上位を占めていました。

 

 不思議なように、同じ年に災害や事件が、重なることがあるのだと知ります。例えば、東日本大震災が、津波を引き起こし原発事故につながりました。

 

平成7年の阪神大震災は1月、サリン事件は同年3月に起こり、日本を揺さぶりました。

 

 リストを見る時に、日本は「災害列島」であることを思い知らされます。ただし、これが必ずしもマイナスに終わらないところが、これまた不思議なところです。

 

 歴史を振り返る時、19世紀、欧米列強は、アフリカ、アジアそして太平洋諸島を次々と植民地にしていきました。そして、19世紀中頃、彼らは、かたくなに鎖国を続けていた日本に接近してきました。彼らは何故日本を他の国同様に植民地にしなかったのでしょうか。これは、かねてからの疑問でした。その理由の一つを、日本の災害から説いた人がおり、それが面白かったのでご紹介します。

 

 1854年3月に日米和親条約を締結した直後から、欧米人が経験したことのない巨大地震が、一斉に日本列島を襲い出した。同年7月、M7.2の安政伊賀地震が発生。伊賀、伊勢、大和にかけて約1800名の死者が出た。これは彼らにとっては恐怖の序章でしかなかった。

  同年12月、駿河湾から遠州灘一帯を震源とするM8.4の巨大な安政東海地震が発生した。さらに、その32時間後に、紀伊半島沖一帯を震源としてM8.4の安政南海地震が発生した。両地震の死者は約3万と言われている。

  特に、安政東海地震では、房総から伊豆、熊野にかけて大きな津波が襲い掛かり、伊豆下田で停泊していたロシア軍艦・ディアナ号は、この津波に呑まれ、沈没してしまった。

  さらに、翌年1855年11月、首都江戸をM6.9の直下型巨大地震が襲い、死者は7千人から1万人にのぼった。

  この安政の三大地震の後、約9年間のうちに3千回もの余震が発生した。この余震は、日本列島に上陸した欧米人を恐怖に陥れ、苦しめ続けた。

 

 災害地震だけではなく、1858年、長崎に上陸したコレラは、江戸まで広がり、死者20万人を出す江戸時代最大の災害となった。さらに、1859年、大雨によって利根川と墨田川が決壊、江戸中は大水害に見舞われた。

  日米和親条約締結後の5年間、日本列島は、欧米人を恐怖のどん底に落とした。この災害列島に欧米人の欲望は萎え果てた。

 

               以上、竹村公太郎「日本史の謎は『地形』で解ける」

 

 まさにマイナスがプラスに、万事益の典型のような事例です。同様に、阪神大震災の時、主なる神様に示された人がいます。一人は森克彦くんであり、以前教会に通っていた彼は、地震とイスラエルのラビン首相が暗殺されたことを通し、世の終わりが近いのではと感じて、教会に戻ってきました。もう一人は、渡辺八重子さんで「人間は一生懸命生きていても、急に生活が変わってしまうことがある。確かなことは何かなと考えた」。これが、主なる神様を求めたきっかけとなりました。

 

 今年の年間聖句は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)でした。

 

 神の国つまり主なる神様のご支配を求めて行く時、主はすべてのことを働かせて益として下さる。たとえ、災害や試練・困難が起こったとしても、御手の中でご栄光に変えて下さることが出来るのだと希望を持っていく時、主が責任を取って下さるのではないでしょうか。

 

 今年の流行語大賞である「そだね~」と応えていただければ幸いです。