どうしてもっと早く教えて下さらなかったのですか?

 7月1日(主日)のメッセージで、サウロがダマスコに向かう途中、復活のイエス様に出会い、回心したシーンを考えました。サウロは強い光のため目が見えなくなり、三日間飲食もせず、ユダという人の家で祈っていました。どんな祈りだったかを考えました。おそらく「私は今までまことの神様のためだと思い、全力を挙げてクリスチャンたちを迫害してきました。でもそれがあなたへの反逆だったとは。ならばどうして早く教えて下さらなかったのですか。ひどいじゃないですか。私の人生は一体何だったのですか」と思い切り自分の気持ちを吐き出したと思われます。そして、自分の気持ちを吐き出し心を整理した時、それに合わせるかのようにアナニヤを通して新たな使命を与えて下さいました。サウロにとっては、もっと早くとの思いがありましたが、福音を広げるためには、サウロの迫害が用いられたのです。すべてのことに時ありでした。

 

 7月5日をもって、一学期の子育てセミナーが終了しました。その内容を学ぶほどに、「自分たち夫婦が子育て真っ最中にこの学びが出来ていたらどんなに子供たちに有益だったことか。なぜもっと早く教えて下さらなかったのですか」とサウロとは違った意味で、主に訴えたい思いが去来します。

 

 例えば、子どもが問題を抱えている場合は、反射傾聴で、子どもとの関係で親が問題を覚える時は、私メッセージで、親子の利害が対立する時は、問題について親子で解決を話し合う第三法で対処する時、解決に導かれることが多い。

 

 こんなことを、誰かが教えてくれたら、親子関係のトラブルを少なくすることが出来たのに、などと思わされます。

 

 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3:11)であるなら、私がこのようなことを知ることが出来たのにも、時があったということになります。

 

 もし自分が子育てのポイントをすべてわきまえ、それに基づいて子育てをして、子どもたちが素晴らしく育っていたら、おそらく私は学びにあたって、高慢になり、上から目線でお母さんたちに語っていたことでしょう。けれども、学べば学ぶほど、自分の至らなさが示され、反省を込めて、失敗は反面教師としていただいて、原則を確認し、それを適用してもらうようにしています。

 

 その時、学びを通し、体験や宿題の分かち合いを通し、主が働いて下さって、多くの親子関係が祝福されていくのを目撃する恵みに与っています。

 

「なぜもっと早く教えて下さらなかったのですか?」の回答は、「わたしの働く時が、まさに、グッド(GOD)タイミングなのだ」ということでした。