待つこと

 インドネシアの元宣教師入船尊先生が「新この大いなる福音のために」という本の中で待つことについて記しています。

 

待たなくては、何事もすまない国から日本に帰って来ての戸惑いは、待つことが少ないことです。

 

「インドネシアに行って、何が一番大変でしたか」と、ある人が私に尋ねました。すかさず私は「待つことです」と答えました。何でもスピーディーに事が運ぶ国に住んでいる人間は、世界中どこに行っても、物事が素早く運ぶものと思っています。

 

 ところがどうして、一枚の書類にサインをもらうために、毎日毎日役所に足を運んで待たなければならないこともあります。ゆっくり働いて、午後二時になると「あぁ時間だね、明日に来て下さい」となるわけです。

 

 こんな時、不快な表情をしようものなら、「こんな小さなことにもイライラして、自分の感情をコントロール出来ない器の小さな人間だな」と思われてしまします。とても牧師として尊敬を受けることなど出来ません。どんなにムカムカしていても、ニッコリ笑ってその場を去らなければなりません。そして、家に帰るなり「あぁ、こんなことがあっていいものか!」と怒ればよいのです。

 

いらちな大阪人にとってインドネシアは耐え難い国かもしれません。

 

入学を待つ人、卒業を待つ人、結婚を待つ人、人生はそれぞれです。

 

 聖書を見る時、待つことは信仰の訓練とされています。アブラハムも、イサクが与えられるまで長い間待ちました。旧約で約束されていた救い主誕生の預言は、旧約最後のマラキ書が書かれてから約四百年後に成就しました。

 

 私事で言うなら父の救いを祈り出したのが信仰を持った16歳の時、それが一方的な恵みの中で実現したのは47年後のことでした。待った時間が長かっただけに、いまだに信じられないような喜びが続いています。

 

 みなさんもそれぞれ、祈り待ち望んでいることがあるでしょう。その実現が一つでも多くこの年に起こされ、ともに御名をあがめたいものです。