ひとり子をお与えになったほどに

 能力や実力、人気などで、人の価値をはかる考え方を「使用価値」という。リストラや派遣社員切りなどは、会社にとっての使用価値による判断だろう。これも尺度の一つではあるが、それだけでは、病気の人や幼子、チャンスに恵まれない人はどうなるのか?聖書には別の価値観が書かれている。

 

 ルカ15:8-10は、イエス様の例え話の一つで、人間を銀貨に例え、一枚でもなくしたら捜し回り、見つけたら大喜びする神様の愛が語られている。イエス様は別々な例え話をされているが、人間を命のないもの(銀貨=貨幣)に例えているのはこの箇所だけであり、ここからイエス様の人間に対する価値の尺度を知ることができる。

 

 使用価値で物をはかると、新品で性能の良い物は価値が高いが、やがて中古品となり、最後にはゴミとなる。しかし貨幣はそうではない。貨幣の価値は、新しくても古くても変わらないからだ。一万円は一万円である。そういう意味で物としては特殊であり、このように新しさや能力によっては変わらない価値を「存在価値」という。イエス様は、あえて人間を貨幣に例えられ、存在自体に価値があることを教えてくださっている。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネ3:16)」とあるように、神様は、ひとり子であるイエス様をこの地上に送ってくださり、人間の罪の身代わりとして十字架にかけるまでに、人間に価値を見出しておられる。そしてその存在価値は、幼子も高齢者も、男も女も変わらない。私達一人一人には、イエス様が十字架にかかられたほどの無限の価値があるということ、これが聖書の教える価値観なのである。