成熟した人、未成熟な人

 ある本に「成熟した人と未成熟な人」の違いが書かれていて興味深かったことです。

 

 成熟した人とは、自分の長所と短所、賜物を具体的に知っている人、自分に優しくできる人、自分の気持ちを、自分の言葉で表現できる人、人の話すことを理解してその気持ちを想像でき、ともに喜んだり悲しんだりできる人、他者を喜ばせることに喜びを感じ、そのすべを知っている人、待つことの出来る人、与えることを喜べる人、お先にどうぞと言える人、自分の非を認めて謝れる人、感謝できる人、人を許せる人…などが特徴として挙げられていました。

 

 一方、未熟な人の特徴は、いつも自分が優先し、そして自分についてはほとんど知らない。自分を知らない人に他者を知りたいという欲求は出てこない。最大の関心が自分自身で、いつも周りからどう見られているか、どのように評価されているかばかりが気になり、他に関心を向ける余裕がない。話題の中心が自分で、褒められている(お世辞であっても)時のみ安らいでいられる傾向を持っている。

 そうでない時は、ヒステリックな反応(暴力もその一つ)しか出来ない。もしそのような未熟な人が、人生のパートナーになるなら、相手をおだて、ご機嫌を取ることが日々の務めとなり、信頼関係を築き上げる交わりは成立しない。

 未熟な人に向かって本心をさらけ出すことは自殺行為になるので、心を明かせない。最もくつろげるはずの家庭団欒の時が最も緊張の強いられる時となるなら、生き地獄を味わうこととなると、記されていました。

 

 自分自身を当てはめてみて、しばし、反省する時を持ちました。

 

 もちろん最初から成熟した人などいるはずがありません。クリスチャンにとって時とともに成長していく原動力はご聖霊です。「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)

 

 クリスチャンがご聖霊によってイエス様の似姿に少しずつ変えられて行くことを「漸進的聖化」と言います。その始まりは、「私は創造主なる神様が造って下さった一点ものであり、傑作作品」と思えるようになることです。そうするとマイナスと思えていた部分や事さえも、主からの贈り物として愛おしくなってきます。そして、他の人といたずらに比べて落ち込むことがなくなり、「自分が好き」と自分を受け入れることが出来るようになってきます。  

 私も、このプロセスを今なお体験中です。